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松花石硯

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松花石は吉林省長白山麓混同江辺にある砥石山から産出される。石質は肌理が細かく、硬く、潤いがあるため、また松花玉(しょうかぎょく)とも呼ばれる。清朝欽定の『西清硯譜』に記載があり「松花石は混同江辺砥石山から出る。緑色をしており、光沢、潤いがあり肌理が細かい。端渓硯、歙州硯に匹敵するものである」。また『吉林通志』、『硯林脞録』(けんりんさろく)などの文献にも記録が見える。松花石で作った硯を松花石硯、または松花硯と称する。
これまで、一般に松花石硯は松花江からその名がつけられたと言われてきたが、実は誤解である。まず、現在までのところ、松花江辺で松花石が発見されたことはない。
さらに『満州源流考』の中で混同江と松花江を総称して松花江としている以外、多くの資料ではすべて「松花石は混同江辺の砥石山から産出される」とあり、松花江とは何ら関係がない。むしろいくつかの資料にある松花石の刷毛状の石紋が、木目が残った松の化石の刷毛状の年輪のようであるため、そこからその名がついたという説の方がまだ少し適当なように思える。しかし、これと松花石硯自体の関連も薄く、今後の考証が待たれる。
松花石は微晶灰岩に属し、震旦紀(六億から八億年前)の地層中に存在する。その主要な鉱物成分は方解石、石英で、少量の絹雲母、粘土鉱物などが含まれる。石質は硬く締まっており、柔らかみがあり肌理が細かく、剛のなかに柔があり、細のなかに鋒がある。その特徴は長く使っても鋒鋩はほとんど摩耗せず、発墨も少しも損なわれず、洗うと墨カスが残らず、水を溜めても乾きにくい。その硬度(モース硬度)は4~5度で、叩くと清らかな金声を発し、余韻が響く。
松花石の色は主に緑色で、深緑、中緑、薄緑などさまざまである。石の中に刷毛でひいたような細かい糸状の紋様があり、品があり高潔で、非常に愛らしい。次いで紫褐色のものがあり、ここ数年、黒色、黄色、灰色、栗色などの特殊な色のものも発見されている。石品は六十数種類ある。色彩華やかで、素晴らしいものが多く枚挙に暇がない。その中でも深緑色で刷絲紋のものが上等品である。特筆すべきは、松花石でもきれいな「石眼」が発見され、「石眼」は端渓石、苴却石(しょきゃくせき)、賀蘭石(がらんせき)にしかないという説を打ち消したことである。
松花石で硯が作られたのはいつ頃か。現在のところその確かな記録は見つかっていない。しかし、清初の大戯劇家・孔尚任の著『享金簿』の記述によると、孔は緑石硯一面を収蔵しており、緑端より艶(つや)やかで、明代王紱の伝世品だという。当時、清の内府で多くの松花石硯の加工に携わっていた名匠金殿揚の鑑定によって「遼東の松花石硯」とされ、明代初期にすでに松花石硯があったことを示す実物である。ここから松花石硯の出現は恐らく明朝(1368-1644)よりも早いと推定される。
松花石硯は清朝には「国宝」として御用のみに限られ、民間に出回ることは厳禁とされた。硯の産地が清朝皇族である満州族発祥の地であったために長い間立ち入りが禁じられ、庶民が採掘することは許されなかった。そのため、硯の採石場は一般に知られることはなく、民間に伝わる松花石硯は鳳の羽毛や麒麟の角のように得難いものであった。松花石硯は皇室の御硯として、特に康煕、雍正、乾隆帝に愛用された。康煕帝の硯に「松花石双鳳硯」があり、その銘に「寿古にして質は潤、色緑にして声清らか。墨起こり毫を益す。故にそれ宝なり」とあり、雍正帝が愛用した「松花石葫芦硯」の御題には「静を以て用と為し、これ以て永年なり」とある。乾隆帝は『御製盛京土産雑咏』十二首の中で、松花石硯を「発墨は端渓と同じく、品は歙州坑の右にある」と称えている。
清朝松花石硯の作製は、量の上だけでなく、「質」の面でも厳格に制限されていた。皇宮の造辨処は南方各派の彫硯の名手を結集したにもかかわらず、硯の彫刻は通常は工匠個人の特徴や風格によって進めることはできず、必ず皇帝の趣味と意図に従ったものでなければならなかった。造辨処の工匠が草稿を描き、主管によって皇帝の審査と許可を得た後、ようやくその図に従って細工が行われた。しかも勝手に変更を加えることは許されず、時には皇帝自らが設計し、御筆の詩句が書かれることもあった。彫硯作業は非常に細かく、精密なものであった。そのため、硯の芸術風格は民間で生まれたものでありながら、また民間の工房で生産される硯とは大きく異なるものであり、「雅、秀、精、巧」の四字を体現するものであった。荘重で、気が雄大で、神聖で、富貴な皇家の風格を現していた。清嘉慶期以降、清朝の衰退と滅亡とともに、松花石硯は次第に歴史に埋もれてしまった。
1970年代後期、吉林省通化市は人力、物資を組織して、関連部門と団体の協力の下、一年余りの努力によって、ついに長白山区渾江岸で失われて久しい松花石の鉱源を発見し、さらに採掘した松花石に丹精に彫刻を施し、新硯を制作した。専門家の鑑定によって、これらの新硯は色、紋様、硬度、音及び成分検査の結果からも、故宮博物院収蔵の松花石硯と全く同じであることが認められた。実用の上でも水が乾きにくく、発墨が良いという特徴を具えており、書画家、鑑定家、収蔵家の肯定と好評を得た。これによって、百年余りに渡って途絶えていた皇宮の御宝は再びこの世に姿を現し、さらに我々の元へやって来ることになった。
著名な書家・趙朴初氏は松花石硯を称賛する詩を作っている。「色は洮河石風硯の漪緑を欺き、神は松花江の水の寒きを奪う。重ねて見る 雲天の割踏を供えるを。会看す 墨海の波瀾の壮んなるを」。著名な書家・啓功氏も題詩を揮毫している。「鴨頭は春の水を濃く染め、柏葉の彫刻は素晴らしく翠は更に寒し。相映える珠珅山の色は好く、千秋長漾し硯池を瀾す」。文物鑑定家・付大鹵氏は次のように評している。「洮河緑硯にこの潤いなく、端渓硯にこの堅さなし」。著名な書画家・呉作人氏は「重ねて卞和(べんか)に見(まみ)える(完璧のような素晴らしい宝石だ)」と述べている(※卞和は春秋時代楚の人で、「完璧」の故事の由来となった宝石「和氏の璧」を見つけた人物)。清の皇族であり、書家の愛新覚羅溥傑氏もまた松花石硯のために言葉をのこしている。「地に遺宝なく、物は尽くその材となる。松花石硯は伝統を受け継ぎ未来への道を切り開く」。みな松花石硯を中国硯林中の素晴らしい宝であると高く評価している。
松花石硯は石質が硬いため、多くは浮き彫りや浅い浮き彫りが主であり、深い浮き彫りによる立体彫りや透かし彫り、象嵌などの表現技法も見られる。線はなめらかで、生き生きと変化し、鑿跡がほとんど見えない。石材に従って形を決めて制作され、その形は多様で、古典的な長方形から自然な形まで数十種類に及ぶ。形によって細工を施し、図案は豊富で、「巨龍吐水」、「松鶴延年」、「花鳥梅竹」、蔬果草虫、山水人物など多種多様である。実用と観賞の両面を重視し、古朴で典雅、荘重で鷹揚な風格を形成した。
現在、松花石硯は実用、観賞、収蔵が一体となった貴重な芸術品として、中国国内はもとより日本、韓国、東南アジアなどにも輸出され、とても高い評価と大きな賞賛を受けている。

  中国名硯「地方硯」著:芙 健 日本語訳:樋口将一 

夏の決算セール

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夏の決算セール

白端硯の鑑定と観賞

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白端硯の鑑定と観賞
端州新聞社  作者:謝明

 白端硯の石色は雪のように白く玉のように滑らかであり、紫色を主調色とする端硯の中でも特別な種類として卓然として収蔵家たちの注目を集めている。この白端硯は肇慶の端州の有名な景勝地である七星岩からうまれる。昔から採石が厳しく定められていて制作された数も少なく、世に出るものは稀である。また全国各地で白石硯は多く産出されていて白端硯と相似しているので鑑別は難しく神秘的な感覚も伝わりにくい。

 端州の琢硯の芸術家が言うには昔の端州七星岩の白端石をし始めたのは宋代の頃らしい。しかし硯専門の書籍には白端は朱墨用に明代の万歴のころには文房四宝として盛んに使われていたと明代の万歴時代の文房四宝の学術家の屠隆が≪考磐余事≫で述べている。さらに“朱硯:或用白端亦可”とあり、これは明代の末期以降から清代までの書物に多く記述されている。例えば清代乾隆時期の陳齢による≪端石擬≫には“七星岩産石名白端、色白如雪、作朱硯最佳”とある。朱硯は朱砂墨、顔料や彩墨専門の硯であり白石が多く使われ、朱紅など色彩のあるものが濁らなく綺麗におりる。白端は雪のように白いだけではなく地質も細かく滑らかで潤いもあり朱硯として最高の硯である。清代の嶺南地方では女性の化粧品の材料にも使われていた。清代の嘉道年、江藩の≪端研記≫には“白端石、肇慶府七星岩石也・・・・其最白者砕以為粉、婦女用敷面、名旱粉”とある。旱粉は干粉ともよばれ“端州の干粉”と“恵州の眉墨”そして女性が眉を書く時に使う顔料の“始興の石墨”の三つが清代の嶺南地方では有名な化粧用品であった。これ以外に白端石は観音菩薩、仙人や仏像などの彫像にも使われる。

 白端石は肇慶七星岩の特有のものでこの中に七星岩と同列の玉塀岩もある玉塀岩は白石で玉のようであることから、この名が付けられた今なお玉塀岩がある山上山下で古人が白端を掘った遺跡があり、山上は玉皇北側の叮咚井戸と双珠小道、山下は登馬鞍の東屋で西側の大きな広間のような洞口にある。また叮咚井の白端は最も優れていて清代の端州干粉で制作された白端は名声を轟かせ、彫琢された白端硯はもっとも白く滑らかなものであった。叮咚井の広さは約1メートルで長さは数メートル、深さ約10メートルの狭い坑であった。古人が採石するには限りがあった。このため整えられた完璧な硯は滅多にお目にかかれなく珍品中の珍品であると言える。

 厳格な場所で採石された白端石の素晴らしい石は、玉のようにきめ細かく雪のように純白で少しの汚れにも染まらない雑質のまったくないものである。普通の白端石は同じ肇慶の七星岩で取れるが質は少し粗く、色もそこまで白くない。石中には赤黒い石紋が混じる白錦石である。陳齢は≪端石擬≫で“七星岩・・・・有花紋者為白錦石”といって江藩の≪端研記≫では“白端石・・・・其質理粗者為柱礎、海幢寺佛塔、将軍署前石獅皆其石也”とある。質が良いものと粗いものと二種類の白端石古硯の値段を比べると優れているものは粗いものの5倍から10倍にもなる。

 現在残っている白端古硯は形制、工芸、風格と墨のさび付き方を見ると明清代のものだと思われる。ある白端古硯は四足で如意池の白端硯、長さ27,3センチ広さ20,7センチ高さ8センチで白端石硯の中でも大きなものである。墨池は如意形、硯側に線刻で装飾があり四足で重厚な作りである。これは典型的な元代の遺風があり明代の早期の風格でもある。これは元代の末期から明代の初頭のものだと言える。この時期は戦乱が続き七星岩の採石の規律が緩み大量に白端石を採石するチャンスが訪れた。これは上述した端硯の芸術家の白端硯が宋代(南宋の末期)から始まったという説とは差があるが、明代の書籍に記述されているものとは一致している。

屠隆の≪考磐余事≫を見ると明万歴年、万歴已亥年すなわち万歴の中期に七星岩の遊覧区の中心の最も目を引く場所に総督が両広(広東、広西)の軍を引き連れ副官の李開芳が書いた“岩石勿伐、澤梁無禁”という言葉を高さ3メートル広さ1,62メートルの文字を岩壁に彫り規律を厳しく人々に警告をしたとある。屠隆が述べている白端はすべてが当時に出現したものではなく以前から存在していたものもある。万歴後ほどなく明代の末期、清代の初頭、朝代に入りさらに戦争状況が悪化した年代になり規律や警告は緩み、これにより大量で大規模な白端の採掘が加速した。この時期の≪広東新語≫には当時、肇慶で千を越える住民により白端が採掘、制作されているとあった。今残っている白端古硯と白端器物の中の多くはこの時期のもの、及び清代の前期中期のものである。例えば白端團鴨硯、方円両小硯などがこれにあたる。七星岩の白端が採掘された遺跡、玉塀岩の叮咚井や双珠小道はこの時期に採掘された跡は多くある。

 近年露天の骨董屋では広西白石で作られた白端でいっぱいであるが広東、肇慶との比較はさほど難しいものではない。広西白石は明らかに白いが質が粗く乾燥していて滑らかではない。斑晶が容易に見て取れるし少し透明感がある。白端は細かい粉が凝縮したようで透明ではなくしっとりとしている。肉眼では広西白石のように斑晶は見えない。両者の値段の比較も天と地との差がある。

皆文堂オアシス店 オープン1周年記念セール

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皆文堂オアシス店 オープン1周年記念セール

オアシス21 地図

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オアシス21 地図

皆文堂 オアシス店 OPEN

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皆文堂 オアシス店 OPEN
オープニングセール 4/21~4/30まで

営業時間 平日 9:30~18:30
     土日祝日 9:30~18:00
休業日  夏季 8/12~8/16
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      オアシスひろば21
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小坂奇石展

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小坂奇石展が行われます。
■会期:平成26年10月28日(火)~11月3日(月) 9時~17時
■会場:大分県立芸術会館
■入場無料

図録 3,600円
(本体3,000円+税240円+送料360円)
西本皆文堂で取り扱っております。
電話097-551-2245
大分県大分市牧1-1-17

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